2012年10月14日日曜日

死を招く酒と命に至る水



わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。ヨハネ6:54

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。ルカ22:20

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。エペソ1:7


イエス様はその血の象徴であるワインを飲み、義とされるように私たちに命じています。私たちがイエス様を救い主であり私たちの主であると受け入れたとき、私たちはそのワインを飲みました。
いったん義と認められたなら、私たちは命の水を飲む必要があります。そうして私たちは聖なる生き方ができるようになるからです。

レビ記109や箴言2329-35節等その他旧約聖書の多くの場所で、ぶどう酒を飲んではいけないと警告しています。

会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。レビ10:9

わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。
あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。
あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。
「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」箴言23:29-35


アルコールは私たちの判断力を鈍らせ、一杯飲むだけで何千という脳細胞を破壊し、アルコール依存症になったり、またアルコールは私たちを罪に導きます。多くの犯罪には酒が絡んでいます。アルコールは肉体的にも霊的にも私たちを死に追いやるだけです。
聖書に書かれてあるぶどう酒は、必ずしもアルコールを含んだお酒であったわけではありません。原語のOnixはぶどう酒と訳されていますが、アルコールを含んでいるかどうか関係なく、ぶどうの木からとれるぶどう汁すべてを含んだ言葉なのです。イエス様が飲んだのはぶどう酒ではなくグレープジュースだったという事実は非常に興味深いです。イエス様が指していたのがグレープジュースだったということを学んで以来、聖書に書かれてあるぶどう酒についてつじつまが合うようになりました。

アルコールを飲むとその性質上私たちの体は脱水します。脱水が続くと、イエス様が私たちに願っていることとまったく正反対の結果、つまり死に至ります。私たちは健康に生きるため純粋できれいな水を飲みます。同じように純粋で聖なる生活を送るために私たちは命の水を飲むのです。もし聖霊に満たされているなら、つまり命の水を飲み続けているなら、飲酒が神の子供という立場から私たちを引き離すことを知るようになり、もう二度と飲むべきではないと知るでしょう。また、聖霊(命の水)に満たされることが、どれほど甘美で麗しく尊いものであるかが分かるようになり、アルコールに代表される世俗的な享楽の必要性を打ち消し、私たちを守ってくださるのです。私たちの信仰は死に追いやるようなアルコールの上に築かれているのではなく、主イエスの命を私たちの中に注ぐ命の水によって建て上げられるのです。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。エペソ5:18

彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。
いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。詩篇36:8,9


飲酒が悪いことだと知っているので、私は誰にもお酒をすすめません。もし飲酒が悪と知りながら、しかも自分自身も飲まないのに、他の人は飲んでもいいと考えているなら、それは真実の愛ではありません。私たちはむしろお酒をやめるように警告し、主イエス様のもとへ連れて行くべきです。
1杯のビールやワインが酔っ払いへの第一歩です。もしお酒を全く飲まないのなら、酔っ払うこともありえません。もし飲酒を止められないのなら、もうすでにあなたはアルコールの奴隷であり、医者に癒してもらわなければなりません。イエスキリストこそ、アルコール依存症から解放してくれる癒し主であり、死の奴隷から救い出してくれる救い主です。


そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」ルカ5:31,32

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。2コリント6:9,10


そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、ヘブル12:15


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(参考) 

これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。1テモテ5:23

ギリシャ人はしばしばおおよそ12から3くらいの割合でぶどう酒と水を割っていた。そして絶えず水を飲むことで胃をいためることがあった。テモテの父親はギリシャ人であり(使徒16:1)、テモテもぶどう酒に慣れ親しんでいたが、クリスチャンに改宗してから飲酒を避けていた。ここでパウロはテモテの健康のために水で割ったぶどう酒を少し飲むことを許可したのである。この助言は栄養に関するものであり、パウロがぶどう酒という言葉を用いたのは、テモテを酔っ払わせるためではなかったと想定する必要がある。

聖書では二種類のぶどう酒が記されていることを理解しなければならない。一つは発酵していて人を酔わせる物、つまり聖書で強いぶどう酒と呼ばれているもの(箴言20:1、イザヤ5:112224:928:729:9)。もう一つは発酵しておらず、グレープジュースのような人を酔わせることのないものである。当時はぶどうの房に入っているものでさえぶどう酒(wine)と呼ばれていたのである。イザヤ書65:8にある"the new is found in the cluster," (KJV) (ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見ればー新改訳)を読めば、このwineが人を酔わせる類のものではないと確信出来る。
飲料水事情はテモテへの助言にも関係したかもしれない。アジアでは季節によってはよどんで悪臭を放つ貯水タンクから予備の水を供給していた。Dake's Annotated Reference Bibleより



(新改訳聖書より引用)

Evangelist Yumi
Acts 29 Japan 


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